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尖閣諸島に関する地図

尖閣諸島写真集

尖閣諸島に関する地図

(01) 尖閣諸島
(02) 魚釣島・飛瀬
(03) 沖の北岩・沖の南岩
(04) 北小島・南小島
(05) 久場島
(06) 大正島











1、尖閣諸島の場所

場所は、東シナ海にあり、一番大きい魚釣島まで、沖縄本島より東へ410km、
石垣島から北北西へ170km、台湾からは石垣島と同じく170km、
中国大陸までは330kmの位置にあります。


(図・第11管区海上保安部)

緯度及び軽度 島名

島名    緯   度    経  度 中山伝信録 英国海図 指南広義 日本水路誌 その他 琉球名 八重山方言
魚釣島 北緯 25度45分31秒〜
  25度46分31秒
東経123度30分34秒〜
  123度32分42秒
釣魚島 釣魚島 釣魚島 ホアピンス島 平和山・和洋島
ホアピンサン
(Hoapinsan)
ヨコンジマ
(またはユクンジマ)
尖閣諸島全てを
イーグンクバジマと言う
飛瀬 ※参考値北緯25度44分8秒 ※参考値東経123度30分21秒
沖の北岩 ※参考値北緯25度46分43秒〜
北緯25度46分55秒
※参考値経123度32分19秒〜
東経123度32分41秒
黄麻嶼
沖の南岩 ※参考値北緯25度45分17秒 ※参考値東経123度34分1秒
Pinnacle is
北小島 北緯25度44分45秒〜
北緯25度45分20秒
東経123度35分18秒〜
  123度35分47秒
シマグワー・鳥島
南小島 北緯25度44分28秒〜
  125度44分45秒
東経123度35分25秒〜
  123度35分46秒
久場島 北緯25度55分12秒〜
  25度55分46秒
東経123度40分15秒〜
  123度41分00秒
黄尾嶼 久場島 黄尾嶼 チアウス島
クバシマ
大正島 北緯25度53分52秒〜
  25度53分57秒
東経124度35分51秒〜
  124度34分06秒
赤尾嶼 久米赤島 赤尾嶼 ラレー岩
クミアカシマ
 これは牧野清著「尖閣諸島・日本領有の正当性」124・125ページの「(十二)尖閣列島の諸元」1996年(平成
8年)10月現在、からの全面書き写しでである。
多くの資料が魚釣島を中心に幾つかの数値を上げているに過ぎず、それまでのものも私が調べた範囲なので、16.
01.24に全て牧野清氏の「尖閣列島の諸元」により書き改め、島名も付け加えた。
注 従って、氏の示された数値は,平成14年4月1日施行の測量法改正による世界測地系以前の、日本測地系に
よる値と思われる。
※参考値 は私が調べ付け加えたもので参考程度にしかならないと考えて下さい。なお数値は平成14年4月1日施
行の測量法改正後のものです。






2、五つの島と三つの岩からなる尖閣諸島

  尖閣諸島とは東シナ海に浮かぶ5つの島と3つの岩からなる島嶼のことです。
5つの島とは、魚釣島、北小島、南小島、久場島、大正島のことであり、
3つの岩とは、飛瀬、沖ノ北岩、沖ノ南岩のことです。
最も大きな島の魚釣島でも広さが約3,6平方キロほどしかありません。


上図は第11管区海上保安部のものに飛瀬を加筆したものです。
(書き加えたのは飛瀬の位置を明らかにする為です)





4、 尖閣諸島の地図

   
___________魚釣島___________________________________________飛瀬

 
北小島と南小島

  
__________沖ノ北岩___________________________________________沖ノ南岩

  
___________久場島___________________________________________________________________大正島____________________

_

_








黒岩氏が名付けた地名
 尖閣諸島の名前はここを探検した沖縄県師範学校教諭黒岩氏が尖閣群島と名付けたこと
から来ています。
 彼は山や渓流にも色々と名前を付けています。釣魚嶼の最高峰(362メートル)を奈良原岳
(これは当時の奈良原繁沖縄県知事の姓です)、北面の東谷に道安渓(八重山島司野村道安
氏の名前)、安藤岬(沖縄師範学校安藤喜一郎校長の姓)、南小島の西岸を伊沢泊(伊沢弥
喜太氏の姓)、南小島の東部にある岩に「新田の立石」(黒岩氏の同僚新田義尊氏の姓)、
北小島と釣魚嶼とのあいだの西よりの水道を佐藤水道(長康丸の佐藤和一郎船長の姓)など
と名前を付けています。
地図に黒岩氏の付けた地名を加えてみました  魚釣島飛瀬地図1 南北小島地図1







6、古賀辰四朗(福岡県出身)氏の開拓事業


上にも書きましたが、魚釣島にはかつて鰹節工場があり、多い時は99戸、248人が住む古賀村と呼ばれた
村落がありました。古賀氏は福岡県八女郡山内村(今は八女市山内)の人間で、一八五六(安政三)年の生
まれ。一八七九(明治十二)年に二十四歳で那覇に渡り、寄留商人として茶と海産物業の古賀商店を開いて
います。
古賀氏は福岡県からお茶の商売で那覇に渡り、夜光貝などの貝殻をボタンの材料として、神戸に売って(年
間一八○トンから二四○トン)金をもうけて、石垣に支店をだした。その翌々年の一八八四(明治十七)年に尖
閣列島を探検して、その有望性を認め、ただちに鳥毛、フカのひれ、貝類、ベッ甲などの事業に着手。一八九
五年、古賀氏は本籍を福岡から沖縄に移し、「沖縄県琉球国那覇西村二十三番地、平民古賀辰四郎」とな
り、本格的に事業にとりくんだのである。

以下は高橋庄五郎著「尖閣列島ノート」の第7章尖閣列島のあれこれ(6)日清戦争とバカ鳥の島からの抜き
書きです。

 古賀辰四郎氏の息子の善次氏(一九七八年六月五日、八十四歳で死去)は、雑誌『現代』一九七二年六
月号でこう語っている。

 当時八重山の漁民の間で、ユクンクバ島は鳥の多い面白い島だという話が伝わっておりまして、漁に出た
若者が、 途中魚をとるのを忘れて鳥を追っていたというような話がよくあったようです。おやじもそんな話を聞
いたんですね。そ こで生来冒険心が強い人間なもんですから、ひとつ探検に行こうということになったんです。
明治十七年のことですがね。
 この探検の詳細な記録は残っておりませんが、何か期するところがあったのでしょう。翌明治十八(一八八
五)年、 父は明治政府に開拓許可を申請しています。しかし、この申請は受理されませんでした。当時の政
府の見解として、まだこの島の帰属がはっきりしていないというのがその理由だったようです。
 ところが、父の話を聞いた、当時の沖縄県令西村捨三がたいへん興味を持ちまして独自に調査団を派遣し
ました。 調査の結果、島は無人島であり、かつて人が住んでいた形跡もないことがはっきりしまして、以後西
村は政府に日本領とするようしきりに上申しまた。
 明治政府が尖閣列島を日本領と宣言したのは、父の探検から十一年後の明治二十八(一八九五)年です。
父の探検から西村県令の上申もあったのでしょうが、日清戦争に勝ち台湾が日本領土となったということが、
宣言に踏み切らせた理由と思います。

古賀辰四郎は明治三○(一八七九)年、沖縄県庁に開拓の目的をもって無人島借区を願い出て三○年間無
償借地の許可をとると、翌明治三一年には大阪商船の須磨丸を久場島に寄航させて移住労働者二八名を送
り込むことに成功し、さらに翌明治三二(一八九九)年には大阪商船の永康丸で男子一三名女子九名を送り
込んだ。この年の久場島在留者は二三名となり古賀村なる一村を形作るまでになった。これらの労働者がい
つごろまでいたかは明らかでない。説によると大正の中期ごろまで続いたといわれる(奥原敏雄論文『日本
及日本人』一九七○年新年号)。
 古賀氏は数十人の労働者を同列島に派遣、これらの干拓事業に従事させた(注 明治三十「一八九七」年
五十人、明治三十一「一八九八」年同じく五十人、明治三十二「一八九九」年二十九人の労働者を尖閣列島
に派遣、さらに明治三十三「一九○○」年には男子十三人、女子九人を送りこんだ)・・・・・・。
 大正(一九一八)年、古賀辰四郎氏が亡くなった後、その息子古賀善次氏によって開拓と事業が続けられ、
事業の最盛期には、カツオブシ製造の漁夫八十人、剥製作りの職人七〜八十人(筆者注上地龍典氏によれ
ば八八人)が、魚釣島と南小島に居住していた(尖閣列島研究会「尖閣列島と日本の領有権」『季刊沖縄』第
五十六号)。
 明治三十(一八九七)年、二隻の改良遠洋漁船をもって、石垣島から三十五人の労働者を派遣し、翌三十
一年には更に五十人を加えて魚釣島で住宅や事業所,船着場などを建設して、本格的に開拓事業を始めた
のである(牧野清論文「尖閣列島小史」)。
 石垣島で尖閣列島の話を聞いた古賀氏は、明治十七(一八八四)年人を派遣して、列島の探検調査に当
たらせ、翌三十(一八九七)年から、毎年、三○人、四○人と開拓民を送りこんだ。こうして最初の四年間に
島に渡った移住者は、一三六人に達しそのなかには女性九人も含まれていた。明治三十六(一九○三)年に
は内地から剥製職人一○数人が移住し、明治四十二(一九〇九)年の定住者は、実に二四八人に達し、九
九戸を数えた。南海の無人島・尖閣列島は、古賀氏の力によってすっかり変貌をとげた(上地龍典著『尖閣列
島と竹島』)。以上の移住の状況を書いている人たちのなかには,島名を挙げずに尖閣列島とだけいっている
人がいるが、 それは魚釣島だったのか、あるいは久場島だったのか、どうもはっきりしていない。
 尖閣列島研究会によれば魚釣島と久場島であるし、奥原教授によれば久場島である。また牧野清氏によ
れば魚釣島である。黒岩恒氏のいったように、沖縄の人たちが魚釣島と久場島をアベコベにしていとするとど
うなるのか。この島名をアベコベにしていたことについては、奥原敏雄教授も井上清氏教授も知っている。一
九四〇(昭和十五)年になっても、沖縄県警察本部は「魚釣島(一名クバ島無人島)」といっている。古賀辰四
郎氏が一八九五(明治二十八)年に久場島といったのはじつは魚釣島ではなかったのか。古賀善次氏がカツ
オブシ製造と海鳥の剥製作りをしたのは魚釣島と南小島であった。
 古賀辰四郎氏が事業を開始されたのは,久場島からではなかったのかといっているが、その理由は、久場
島は魚釣島ほど地形が複雑でなく、地質も単純であり、土壌は肥沃のようで、島の南西面には数ヘクタール
と思われる砂糖キビ畑も船から望遠され、同行の者がパパイヤの木も見受けられたと言うし、古賀辰四郎氏
は柑橘類も移植したといわれるからだとしている。
 また正木任氏は魚釣島に飲料水があるから、古賀辰四郎氏は魚釣島を根拠地にして事業を始めたようだと
いっている。そして一九三九年現在、久場島に飲料用天水貯水槽が三つ残っていたという。だが、よく考えて
みなければならないことは、古賀辰四郎氏が久場島を借りたいと願いでたのは、じつは海鳥を捕まえて、これ
を外国に売るためだった。そして黒岩恒氏「恍惚自失、我の鳥なるか、鳥の我なるかを疑がわしむ」といわせた
のは南小島と北小島の海鳥どもであった。南、北小島は魚釣島に近い。そして南小島の西側にひろがる平坦
地は近代工業の敷地になりそうだという(高岡大輔氏)しかし、それも水があってのことである。

どんな事業か
では古賀氏は尖閣列島でどんな事業をおこなったのか。これも、概略引用しただけでもまちまちである。
 国有地の借用許可をえた古賀氏は、翌年の明治三十(一八九七)年以降大規模な資本を投じて、尖閣列島
の開拓に着手した。すなわちかれは魚釣島と久場島(傍点著者)に家屋、貯水施設、船着場、桟橋などを構
築するとともに、排水溝など衛生環境の改善、海鳥の保護、実験栽培、植林などをおこなってきた(注 この功
績によって政府は一九〇九「明治四十二」年、古賀氏に対し藍綬褒章を授与している)(前掲尖閣列島研究
会論文)。
 開拓事業と並行して、アホウ鳥の鳥毛採取、グアノ(筆者注 鳥糞)の採掘等の事業をおこなった(前掲尖
閣列島研究会論文)。
 大正七(一九一八)年古賀辰四郎が亡くなった後、その息子古賀善次氏によって開拓と事業が続けられ、と
くに魚釣島と南小島で、カツオブシ及び各種海鳥の剥製製造、森林伐採が営まれてきた(前掲尖閣列島研究
会論文)。古賀善次氏が国から民有地として払い下げを受け戦前まで魚釣島にカツオブシ工場を設けて、カツ
オブシ製造をおこなったり、カアツオドリやアジサシその他の海鳥の剥製、鳥糞の採集などを営んでいた(奥
原敏雄論文『日本及日本人』一九七〇年新年号)。
 古賀辰四郎氏及び善次氏によっておこなわれた事業は、この他フカの鯖、貝類、べっ甲などの加工、海鳥の
缶詰製造がある。ただしアホウ鳥の鳥毛採取は乱獲と猫害などのため大正四(一九一五)年以降、またグア
ノの採掘と積出しは、第一次大戦によって船価が高騰し、採算が取れなくなり中止された。その他の事業も、
太平洋戦争直前、船舶用燃料が配給制となり、廃止された(前掲尖閣列島研究会論文の注)。
 尖閣列島は古賀辰四郎さんの無人島探検によって明治十七に初めて開拓に着手されたわけです。その古
賀さんが労務者と共にまず黄尾嶼にわたって、羽毛、亀甲、貝類等の採取に着手し、その後魚粉の製造ある
いはかつお節工場を現地にたてて経営しましたけれども、大正の中ごろから事業不振のため全部引揚げ、そ
の後現在にいたるまでも無人島になっている(桜井×氏)

 古賀辰四郎は明治十七(一八八四)年、労務者を久場島に派遣し、羽毛、べッ甲、貝類の採取を初め、その
後、古賀氏は日本政府から魚釣島、久場島に派遣し、羽毛、ベッ甲、貝類の採取を初め、その後、古賀氏は
日本政府から魚釣島、久場島、 北小島、南小島の四島を三〇年の期限付きで借地権を獲得した。そしてカ
ツオドリ、アジサシなどの海鳥の剥製、鳥糞の採集、カツオ業を拡張したが、それらの事業がいつごろまで続
いたかについては明確な記録もなく、善次氏の話によれば、大正の中期ごろから事業が不振になったらしい
(高岡大輔論文「尖閣列島周辺海域の学術調査に参加して」参照)。

 古賀辰四郎氏は魚釣島と久場島に家屋や貯水設備、船着場をつくった。さらにカツオ節工場、ベッ甲、珊湖
の加工工場も建設された。そのほかグアノ採掘にも着手した(上地龍典氏)。黄色嶼で明治四〇年代、古賀
辰四郎氏は二年間燐鉱採掘したが、その後台湾肥料会社に経営権を渡した(正木任論文「尖閣列島を探る
(抄)」『季刊沖縄』第五十六号参照)。
古賀商店は戦争直前まで伐木事業と漁業を営み、(琉球政府声明「尖閣列島の領土権について」)。
 黄尾嶼を古賀氏が開拓し、椿、密柑など植え,旧噴火口には密柑,分旦、バナナ等があった。さつまいもや
さとうきびは野生化していた。魚釣島の古賀商店の旧カツオ節製造所の跡に荷物を運んだ。魚釣島の北北
西岸に少しばかり平地があって、そこに与那国からの代用品時代の波に乗ってか、はるばるとクバ葉脈を採
取のため男女五三名という大勢の人夫が来て、仮小屋を作り合宿していた(前掲正木任論文参照)。
正木氏のリポートにある与那国の人たちは、古賀商店の多田武一氏が連れて行った人たちであろう。クバの
葉脈でロープや汽船や軍艦のデッキ用の×(筆者注 ブラシという人もいる)をつくった。またクバの幹で民芸
品などもつくったといわれている。与那国にもクバはあったがそんなに多くなかった。戦争によって物資が不
足してくると、クバの繊維はシュロ椰子の代用品につかわれたのであろう。
多田武一氏は与那国の人であり,クバの葉を求めて家族とともに魚釣島に渡った。これが、琉球政府声明に
ある古賀商店の伐木事業なのかもしれない。しかしこれは季節的一時的なもので、古賀善次が政府から四
島を買いとったときには、四島はふたたび無人島になっていた。


一枚の写真
ここに一枚の写真がある。一九七八年五月五日号『アサヒグラフ』は,尖閣列島は無人島ではなかったという
「証拠の写真」を八枚掲載した。(管理者注:開拓時代当時の古い写真に掲載したものであろう。このページ
の下にも2枚ほど掲載した)それは古賀善次未亡人花子さんがもっているものだが、そのなかの一枚は筆者
が一九七一年に入手したものと全くおなじものである。筆者のもっている写真は,一九〇一年二月に黄色尾
島で生まれたという伊沢弥喜太氏の長女真伎さんのもっている明治四十年頃の写真である。そして、おなじ
一枚の写真を古賀花子さんは魚釣島のものだといい,伊沢真伎さんは黄色島(黄色嶼、久場島)のものだと
いう。この写真には事務所の責任者として、日の丸のポールのところに伊沢弥喜太氏がおり、その右六人目
のところに白い着物を着て帽子をかぶり、 ステッキをついているのが古賀辰四郎氏である。いったいどちらが
本当なのか。辰四郎氏と弥喜太氏の二人が写っているのである。古賀花子さんのもっていないもう一枚の写
真(これは古賀辰四郎氏の自慢のカメラで写したものであろう)の中央に弥喜太氏が次女を膝の上に乗せて
いるのがある。それには「黄尾島古賀開墾・・・・・・」と紙に書いたものを門柱に貼り付けてある。これは写真
をとるために書いたものであろう。なかなかよい字である。
 ところが弥喜太氏や辰四郎が書いた日誌も記録もない。辰四郎氏は久場島拝借願いを出して借り受けた
のに、どうして「黄色島古賀開墾・・・・・・」としたのだろうか。黄色島を島の固有の島名と考えたのであろう。
しかし、黒岩恒氏が書いていているように、当時沖縄の人たちが黄尾嶼と魚釣島(釣魚島)をアベコベに考え
ていたとしたらどうなのであろうか。伊沢真伎さんは黄尾島では飲み水がなおので妻帯者は弥喜太氏一人で
あったといっている。写真にある婦人労働者は、すべて独身で土佐のカツオブシ工場から連れてこられたもの
であり、子供労働者はとさや沖縄から買われきたものであったという。
 黄尾島で弥喜太氏の娘が二人生まれた。長女の真伎さんは久米村小学校に三年生までいて、一九一〇
(明治四十三)年に弥喜太氏の故郷熊本県に帰ったが、そのご、父弥喜太氏の故郷熊本県に帰ったが,そ
の後、父弥喜太氏とともに台湾に行き、そこで結婚し、敗戦で日本にかえった。大城立裕著『内なる沖縄』に
よれば、久米島の住人は、中国からの帰化人の子孫で、旧王朝時代は中国語を常用していた向きもあった
ようだという。
 古賀花子さんは夫の古賀喜次から聞いたたことを話しているのであり、伊沢真伎さんは父弥喜太氏から昔
きいたことを 話しているのだから記憶がうすれたことも誤りもあるだろうと思う。しかし正木任氏によれば黄尾
嶼(久場島)には飲み水がなく雨水を貯える水槽が三カ所つくられ、それでも飲料水が不足したときはサバニ
で魚釣島まで水取りに出掛けたというから、真伎さんの生まれたのは確かに黄尾嶼であった。ではカツオブ
シ工場は魚釣島にあったのか。それとも黄尾嶼(久場島)にあったのか。あるいはまた魚釣島と黄尾嶼の両
方にあったのかどうもはっきりしない。しかし伊沢真伎さんは黄尾地馬でカツオブシ工場をつくり、土佐から職
人を入れて経営していたというし、また黄尾島では貝殻の採取とアホウ取の毛の採取をやっていたといって
いる。弥喜太氏は「八方ころび」とよばれたまん丸な真珠を品評会にだして賞金三百円をもらい、皇后陛下に
健常するために東京に行くのに支度金がかかり赤字をだしたという。真水がなくともカツオブシがつくれるの
かどうか宮城県気仙沼の古いカツオブシ業者にきたら、それはつくれるという。

辰四郎と弥喜太
二人がどこで、どのようにして知りあったのかはわからない。出資と経営についてどのような話があったのかも
わからない。わかっていることは、古賀辰四郎氏は金をだしても細々したことはいわない太っ腹の人だったと
いうことである。伊沢弥喜太氏は一八九一(明治二十四)年、漁民とともに石垣島から魚釣島と久場島に渡
航した。このとき弥喜太氏は海産物とアホウ鳥を採取して帰った。そしてまたこのとき、弥喜太氏は中国人の
服装をした二つの遺体をほら穴のなかで発見している。黒岩恒氏は一九〇〇年の尖閣列島探検記事のなか
で、同行の人夫が山中に白骨ありといったが、夕方なので無縁の亡者を弔うことができなかったといっている
が、それは釣魚島のことである。弥喜太氏は一八九三年再度渡航している。石が井島に支店をだしていた辰
四郎氏は当然、弥喜太氏と知りあったと思う。弥喜太氏は読み書きのできる当時インテリであった。
 一九〇〇年五月に古賀辰四郎氏は永康丸をチャーターし、宮島幹之助理学士(北里研究所技師を経て慶
應大学医学部教授)に頼んで久場島(黄尾嶼)の調査をしてもらうことにした。沖縄師範学校教諭黒岩恒氏
(一八九二年に沖縄に赴任)は校長の命令で同行し、また野村道安八重山島司も一諸に行った。
 宮島幹之助理学士の黄尾嶼での調査は、風土病,伝染病、ハブ、イノシシその他の有害動物の有無や飲
料水の適否などであった。調査の結果、マラリヤ,伝染病はなく、ハブ、イノシシは棲息せず、また飲み水が
ないことがわかった。
 宮島理学士が黄尾嶼で調査をしているあいだ黒岩氏は、永康丸を釣魚嶼に向け、五月十二日午後四時、
古賀辰四郎、野村道安氏とともに釣魚嶼に上陸しただけで船にもどり、二日後に迎えにくるからといって黄尾
嶼に帰った。黒岩氏の釣魚嶼の探検記事には「教導(伊沢氏)一名、人夫三名」をもって探検隊を組織したと
ある。教導とは案内役のことである。この伊沢氏というのは伊沢弥喜太である。弥喜太氏は釣魚嶼のことを
知っていた。「午後尾滝谷に着す、此地古賀氏の設けたる小舎一、二あり屋背屋壁皆蒲葵葉を用い」と黒岩
氏は書いているが、ここは「秋来たりて春に去る」アホウ鳥を捕獲するために設けられたもので、屋根も壁もみ
なクバの葉でつくられていた。尖閣列島の仕事に実際に携わった責任者は弥喜太氏である。では、釣魚嶼の
開発はクバの葉でつくった小舎からどんな発見をしたのだろうか。
 辰四郎は一九○一年には、沖縄県技師熊蔵工学士の援助を受けて、釣魚島に防波堤を築き、漁船が着岸
できるようにした。辰四郎氏が描いた明治四十年代の魚釣島事業所建物見物配置図がある。(上地龍典著
「尖閣列島と竹島」教育社刊、五四頁)。この配置をみると漁師の住まい、カツオブシ加工労働者の住まい、
婦人労働者の住まい、 子供労働者の住まい、カツオ切り場、カツオ釜などがあり、又火薬庫もある。
 バカ鳥の乱獲と本土資本の進出で、弥喜太氏の経営はゆき詰まり、弥喜太氏は家族とともに台湾に行き
一九一四年に花蓮港で死んだ。
この年に第一次世界大戦が始まり、日本軍は山東省に上陸した。そしてその四年後に辰四郎が死んだ。こ
の二人が死んでしまうと、正確な記録がないために事実関係がよくわからない。辰四郎氏のあとを善次氏が
継いだが、尖閣列島の「黄金の日日」はそのころまでだったと上地龍典氏は書いている。
 どうもややこしい問題である。しかし、そこには「天日ために光を滅する」ほどの海鳥がいて、北上するカツ
オ、マグロ、カジキなどの回遊漁の一部は必ず尖閣列島海域を通過する。そして古賀辰四郎氏の尖閣列島
開発事業があったことは、まぎれもない事実である。古賀商店の一九○七年の産物価格は一三万四、○○
○余円というから、これは当時としてはたいへんな金額である。

他に2・3古賀氏について述べたものがあるが、今のところこれが一番詳細であると思う。ただ、高橋氏の海
おられることを小生は全て正しいとは考えていない。非常に参考になったのも事実である。最近「古賀氏と古
賀商店」という論文があるのを知ったのでこれを読む日を楽しみにしている。



(※管理者注、古賀氏については別項に「尖閣諸島の開拓者・古賀辰四郎」を儲けています)


第11管区海上保安本部の「尖閣諸島」の記事には
開発の痕跡」として以下のことが記載されている。

○開発の痕跡

___________________
カツオ節工場の跡1 (写真・海上保安庁)   __________ 船着き場跡(写真・海上保安庁)   

 尖閣諸島が我が国の領土に編入された明治28年に、民間人から魚釣島、久場島、南小島、北小島の4島に対し
国有地借用願が出されました。翌年、明治政府は同民間人に対しこれら4島を30年間無料で貸与することを許可
し、島には延べ数百人の労働者が送り込まれ、桟橋、船着場、貯水場などが建設され、開拓が進められました。
  当時、魚釣島と南小島ではカツオ節、海鳥の剥製などの製造が行われ、現在も石垣を積み上げたカツオ節工場
跡が残っています。

 昭和7年(1932年)には開拓者から魚釣島、久場島、南小島、北小島の4島の払い下げが申請され、有料で払い
下げられました。
 現在は無人島となっていますが、昭和44年に石垣市により地籍表示のための標柱が建てられています。
※管理者注、この民間人とは私と同郷の古賀辰四郎氏のことである。古賀氏については、
「尖閣諸島の開拓者・古賀辰四郎」を参考にして下さい。古賀氏の写真もあります。
ここに書かれている明治28年に、同氏出された魚釣島、久場島、南小島、北小島の4島に対
する国有地借用願は、高橋庄五郎著 「尖閣列島ノート」の第7章「尖閣列島のあれこれ」の
第6節「日清戦争とバカ鳥の島」(148頁)に掲載されている。(下に引用)














6、存在しなかった尖閣諸島の領土問題

 尖閣諸島の領土問題とか領有権問題とか言いますが、それは昭和四十三(一九六八)年にエカフェ(国連
アジア・極東経済委員会)が、東シナ海の大陸棚に、膨大な石油資源が埋蔵されている可能性のあることが
指摘してからのことで、本来は存在しなかった問題なのです。その存在しなかったはずの尖閣諸島の領有権
問題が何故にこれほどの大問題となっているのでしょうか。

 それには幾つかの原因があります。 
1、経済的要因  東シナ海に石油・ガスが埋蔵すること。経済発展は13億の人口を有する中国にとって死
活問題であり、東シナ海の石油とガスの独占は、絶対的命題であります。

2、軍事的要因 中国海軍は東シナ海を既に収め、我が庭となしました。更に黄海から太平洋に出る道を確
保し海洋国家の実現を目指しています。それは安全保障の確保の為です。その場合、尖閣を日本が領有す
れば、尖閣は中国に対する棘となります。
 何故彼らは黄海から太平洋に至る道を確保しようとしているのでしょうか。それはアジアに於ける覇権の確
立と台湾解放とに関係があります。アジアに於ける覇権確立は中国の完全なる独立確保が狙いです。米国
にも他国にも一切嘴を挟ませぬ立場を確保する為にアジアでの覇権確立が必用なのです。ですが、それは、
アジア諸国にとって自らの独立が危うくなることです。台湾解放は中華人民共和国建国以来の課題であり、
これは何としてでも達成しなければならぬ課題です。でないと、中国共産党はその地位を脅かされかねない
のです。その為には彼らは何でもします。今自制しているのは台湾問題に米国が絡んでいる為です。中国が
台湾解放を決意した場合、尖閣諸島は台湾軍の押さえ場所として何が何でも自国のものにしておく必用があ
ります。

3、政治的要因 東シナ海の石油・ガス資源を独占することは、中国の経済発展に欠かせぬだけでなく、これ
を日本に半分取られることは、日本が資源国となることであり、日本を追い落として、アジアでの覇権を握ろう
としている中国にとって、甚だ不利な立場に陥るからです。更に言えば、東シナ海と南シナ海を完全に我が庭
となし、太平洋に至る道を中国が確保すれば、中国は大きく自国の安全を確保できると同時にアジアの覇者
への一歩を踏み出すことが出来るということです。逆に日本から見れば、それは独立を脅かされ、アジアに於
ける日本の地位は非常に危うくなる。アジアから見れば中国の作り出す秩序の下でしか独立を確保できなく
なるということです。
 中国が、「侵略戦争をした」、「南京虐殺をした」、「細菌戦争をした」、「強制連行をした」と言えば、政府も国
民もマスコミもぐうの音も出ない状態であり、中国からすれば、これを自国の国益獲得に利用しない手はな
い。人の弱みにつけ込んで根こそぎ奪うのは、中華思想の染みついた中国からすれば当然のことで、彼らか
らすれば、それを知らない日本こそ馬鹿だということになる。

 本来は存在しないはずの日中・日台間の尖閣諸島領有権問題が何故に斯くまで大問題になるのでしょう
か。その最大の理由は、日本政府も日本国民も日本マスコミも中国から、「侵略戦争をした」、「南京虐殺をし
た」、「細菌戦争をした」、「強制連行をした」と言えば、何の反論もできない、正論すら分からなくなる、言えな
くなる惨めな戦後の状況にあります。そういう状況は異常です。その状況は洗脳された人間が陥る状況と同
じです。戦後の日中関係には嘘があります。
 そうでなくても、戦争のことは日中平和条約締結時に解決した問題です。平和条約を結ぶということは、こ
れから仲良くしていきましょうという約束であって、過去の恨み辛みはここで水に流し、これからは対等に付き
合いましょう、互恵平等で行きましょうというものです。それを中国の政府高官も国民も今になって過去は水に
流せないという。
 これでは互恵平等の外交は実現できません。日本政府は対中姿勢を根本から改めるべきです。アジアに
覇権を求める中国に反省と転換を求めるべきです。それがアジアの平和と世界の平和につながる様にするの
が我が国の課題です。それが出来ないというなら対中外交は危険度の強いものと断定し、政治的経済的軍
事的攻撃を仮定して、これらに対抗できる処置を検討した外交関係に改めるべきである。というより、実はそ
れが世界に於ける外交の基本なのであるが・・・

 さて、本来は存在しないはずの日中・日台間の尖閣諸島領有権問題。問題が生ずる以前はどうだったので
しょうか。



  私が本当は領土問題はなかったというのは、東シナ海の資源問題が発する1968年〜70年以前は、中
国・台湾は日本の尖閣諸島領有に異論を挟まなかったし、尖閣は日本の領有する土地であると認めていた
からです。

 先ずそこから述べたいと思います。

(イ)沖縄県石垣市役所に保管されている「感謝状」



- 中華民国駐長崎領事が石垣村民に贈った「感謝状」 -



− 説明 −
   
感謝状
中華民国八年の冬、中華民国の福建省恵安県の漁民、
郭合順ら三十一人が風難に遭遇して飄泊し、
日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内和洋島(魚釣島)に至る。
日本帝国沖縄県八重山郡石垣村の職員玉代勢孫伴君は、
熱心に救●(一字不明)し、彼らを故国に生還するを得さしめた。
洵属救災恤●、富仁不譲深堪
(洵に災を救い●を救うに当たる、正に仁と言うべし、譲りて深く感佩に堪えず、か?
ここは小生にはよく分からない)、
特にこの状を以て謝悦を表す。

中華民国駐長崎領事馮冕(ひょう・めん)
中華民国九年五月二十日

(領事名の下に「華駐長崎領事」の公印と年月日の上に「中華民国駐長崎領事印」が押されている)

 大正九年(1919年)の冬、魚釣島近海で中国人が遭難しているのを古賀氏が見つけて救出。八重山島庁(当
時)、石垣村役場も総出で救援活動を行い、31名を無事に本国に帰還せしめた。このことに対して中華民国の長崎
領事が感謝状を贈ったのがこれである。感謝状は玉代勢氏のほか、石垣村長(当時)の豊川善佐氏、古賀善次氏、
与那国島出身の通訳松葉ロブナストさん計四人に贈られた。現存するのは、玉代勢氏あてたこの一枚だけである。
同氏の長男、冨田孫秀氏が石垣市に90年頃に寄贈した。

この感謝状の中で中華民国長崎領事は、魚釣島のことを
日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内和洋島」と
記し、救助した島民を
日本帝国沖縄県八重山郡石垣村雇玉代勢孫伴君」と明記している。

「和洋島」というのは魚釣島の日本名である。(牧野清著「尖閣諸島・日本領有の正当性」124・125ページ)
 つまり、当時の中国政府は、魚釣島のことを日本国の八重山郡尖閣列島内和洋島(魚釣島の日本名の一つ)と間
違いなく認識していたのである。今中国を代表する政府は、中華民国政府から中華人民共和国に替わっています
が、政府が替わったからと言って、この認識をなかったと否定することを国際法は認めていません。



(ロ) 尖閣諸島を日本領土と認めていた中国・台湾の教科書・地図

次に、一九七二年五月に外務省情報文化局が出した、「尖閣諸島について 」の中にこういうことが書いてあります。

中国側が尖閣諸島を自国の領土と考えていなかったことは、サン・フランシスコ平和条約第三条
に基づいて米国の施政の下に置かれた地域に同諸島が含まれている事実(昭和二十八年十二
月二十五日の米国民政府布告第二十七号により緯度、経度で示されています)に対して、従来
なんらの異議をとなえなかったことからも明らかです。のみならず、先に述べましたように、中国側
は、東シナ海大陸棚の石油資源の存在が注目されるようになった昭和四十五年(一九七〇年)
以後はじめて、同諸島の領有権を問題にし始めたにすぎないのです。現に、台湾の国防研究院と
中国地学研究所が出版した『世界地図集第一冊東亜諸国』(一九六五年十月初版)、および中華
民国の国定教科書『国民中学地理科教科書第四冊』(一九七〇年一月初版)(別添1)において
は、尖閣諸島は明らかにわが国の領土として扱われています(これらの地図集および教科書は、
昨年に入ってから中華民国政府により回収され、尖閣諸島を中華民国の領土とした改正版が出
版されています)(別添2)。また、北京の地図出版社が出版した『世界地図集』(一九五八年十
一月出版)(別添3)においても、尖閣諸島は日本の領土としてとり扱われています。
中華民国59年(1970年)1月初版国民中学地理教科書では、
尖閣諸島を日本領土と認めた地図が掲載されています。

 中国は、尖閣諸島は日本帝国主義により掠め取られたもので、中国が歴史上ずっと尖閣諸島を自国領土としてき
たと言いますが、それは以上のことから事実とは違うと断言できます。何故なら、もしそれが事実ならば、かくの如く
「掠め取った」と、他国を盗人や泥棒の如くののしる国が、それまで放置してきた筈がないからです。はっきり言えば
これは嘘です。嘘を言って力で強弁して押し切ろうとしているのです。


 (ハ) 牡丹社事件  −「日清両国間互換議定書」に書かれたこと−
 明治4年(1871年)に牡丹社事件というものがありました。那覇に行った宮古島の貢納船がその帰りに暴風雨で
遭難し、台湾南部に漂着、乗員69人のうち3人が水死、残りは台湾原住民族・パイワン族の集落、牡丹社に救助を
求めたが、54人が殺害された。生き残った12人は翌年、中国・福建省を経由し那覇に命からがら帰ったという事件
です。
 外務卿副島種臣は1873年に北京を訪れ、清国政府と直接交渉しましたが、清国政府は、台湾の住民は「化外の
民」で「教化の及ばぬところ」と事件に対する責任を拒否したのです。清国政府が台湾に住む部族のしたことを、我が
国の教化の及ばぬ者達が為したことであるから、自分たちに何も責任はない、我は関知しない、責任は取らぬという
のです。これは台湾は完全なる我が国の領土ではないと世界に発言したものです。台湾の住民すら「化外の民」で
あるという国が、本当に尖閣諸島を自国の領土と考えていたのでしょうか。誰だって甚だ疑問があると言わざるをえ
ません。さて、明治政府は74年、牡丹社懲罰の為に「台湾出兵」をします。


征討軍はまず厦門に立ち寄り、清国の福州総督に出兵の告知をし、その上で台湾
に上陸します。牡丹社を制圧し宮古島民の53柱を回収し、更に他の台湾部族との
戦いも7月には終わり、57部族と和議をします。
 清国とは10月31日、駐清国イギリス公使ウェードの調停で、「日清両国間互換議
定書」が調印されます。
 清国は日本の行為を「民を保つ義挙」と認めて先住民に害された者の遺族に見舞
金10万両を、台湾の現地に日本の征討軍が設置していた施設や道路を清国が買
い上げるという名目で40万両を支払うという内容です。
(これはあるWebサイトの要約です)

 「民を保つ義挙」の民とは遭難した宮古島の者のことであり、それを日本政府との外交文書で示したということは、
宮古島の人間は日本国民であると清国政府が正式に認めたということです。つまりこの「日清両国間互換議定書」
(日清両国間互換条款?)により、清国は琉球は日本領土であると認めたのです。ここで沖縄は日本の支配するとこ
ろだと日中間でも国際法の上でも決定したのです。

下は台湾のあるサイトの記事です。
滿清政府也昏庸到底,以賠銀五十萬兩外,在和約中確定「日本此次聲稱為保護琉民而進兵入臺,中國不指為不
是」,這是更大的損失,等於承認日本有權保護琉球,中國無形中喪失了對琉球的宗主國地位。同時展現在世界
各國面前是大清帝國願意賠款,而不敢作戰。
於十月三十一日,由駐北京英國公使.威綏瑪(Thomas Wade)居中調停,和約成立,日軍在登陸地的龜山建碑紀
念後,退出台灣。這件日本藉口牡丹社事件侵犯台灣,滿清政府賠了夫人又折兵的情況下於是告終。
この中に、「這是更大的損失,等於承認日本有權保護琉球」とあります。私は漢文を読めませんから大体しか分かり
ませんが、およそ、「(清国政府は)大失敗をやらかしてくれた。これは日本が琉球を保護する権利があると承認した
に等しい」と言っているようです。

 これで、中国の中にある、「沖縄は本来清国の属国であり、尖閣諸島が沖縄に属していたとしても、琉球そのもの
が清国に属していたのだから、尖閣は当然中国のものだ」という議論を封じることができます。


 「日清両国間互換議定書」で清国は、「琉球は日本の領土である」と認めたのです。これは今でも
覆りません。政府が替わっても、これを覆すことは国際法では認められないのです。明治政府は江
戸幕府が結んだ不平等条約をいやでも受け継がねばならなかったのはその為です。これは誰でも
守らなくてはならないのです。そうでなくては世界は力で国際間の紛争を解決するしかなく、混乱の
坩堝に陥ってしまいます。
 併し中国は今これを覆そうとしています。「戦後の日本による米国からの琉球接収は国際法上の
根拠を欠き、その地位は未確定のままだ」という最近の主張は、過去に清国が認めたことなど関係
ないという、国際法を無視した暴論です。マスコミはこれを日本側に対する揺さぶりなど言っていま
すが、そうではなく、何故ハッキリのと琉球に手を付けるなと言わないのでしょうか。かかる主張は
我が国の主権を侵害する行為だと何故批判しないのでしょうか。それだから中国は何も気にせずに
際限なく我が国の東シナ海に於ける主権を侵害してくるのです。
 しかもこれは揺さぶりでしょうか。揺さぶりではないかも知れません。尖閣諸島に手を付ける、或
いは東シナ海から日本を追い出しガスと石油を独占する。又、日本がガス田の試掘に入れば力で
阻止する。そんなことの、前触れ、予告かも知れません。それは侵略であり、主権侵害であり、脅し
です。揺さぶりではありません。






 (ニ) 中国も台湾も尖閣諸島を日本領であると認めてきた
 次に奥原敏雄教授(国士舘大学・国際法)の、「尖閣列島問題と井上清論文」(アジアレビュー)における指摘を引
用したいと思います。