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魚釣島地図
尖閣諸島の写真と地図集


魚釣島地図

目次

地図名
解説
01 釣魚嶼地質圖 釣魚嶼地質圖(明治33年・黒岩恒)
02 釣魚嶼地質圖拡大図
03 魚釣島地図01 国土地理院1:25000+地名
04 魚釣島地図03 九州大学・長崎大学合同調査隊
05 魚釣島地図02 「MSN 地図」1/25000+地名
06 魚釣島地図06 国土地理院1:25000+地名
07 魚釣島飛瀬地図 1 国土地理院1:25000を拡大
08 魚釣島飛瀬地図 2
09 魚釣島飛瀬地図 3 佐藤水道を追加




魚 釣 島

写真:第11管区海上保安本部 魚釣島



面積=4、32平方キロメートル。 周囲=11、128m 高さ:海抜362m

(管理者の推定) 最大幅、横 約3550m  縦 約1330m。 
(全くのおおよそであり、誤差が大きいので当てになりません)



魚釣島地図01

釣魚嶼地質圖(地学雑誌明治33年卷・黒岩恒)
geological map of hos-pin-su

作者:H.KUROIEWAは黒岩恒(くろいわひさし)氏について
沖縄県師範学校教諭。黒岩恒の論文「尖閣列島探険記事」には、明治十八年(一八八五年)九月十四日付で、沖
縄県美里間切詰め山方筆者大城永常が、県庁にさしだした報告書を引用しているが、それには、「魚釣(よこん)島
と申所は久米島より午未の間(南々西)にこれ有り、島長一里七、八合程、横八、九合程、久米島より距離百七、八
里程」とある。この島は、位置と地形から見て釣魚島であることは明らかだが、そうだとすれば、琉球ではこの当時、
漢字では中国語の釣魚島を日本語におきかえた魚釣島と書き、琉球語で「ヨコン」とよんでいたことになる。また同年
九月二十二日付で、沖縄県令西村捨三が山県内務卿に上げた上申書(註)は、「久米赤嶋、久場島及ビ魚釣島ハ、
古来本県ニ於テ称スル所ノ名ニシテ……」という。この久米赤嶋は中国文献の赤尾嶼、久場島は黄尾嶼であること
は後文で資料をあげる。魚釣島は釣魚島である。


地学雑誌
地学雑誌・第12輯・140巻・478-9頁・明治33年8月・尖閣列島探検記事


尖閣列島探検記事

明治三十三年五月、沖縄縣那覇區在住、古賀辰四郎氏代、其借區たる無人島へ向け、汽船大阪商船会社
汽船永康丸派遣の擧あり。理學士宮島幹之助氏亦渡航せらる。不肖肯校命により此幸便を借り渡島探檢す
ることとなり、同五月三日を以て那覇出帆往復十八日問、即仝五月二十日を以て調査を了へ帰校せり。その
間、宮島學士は黄尾嶼の一島に留りて調査に従事せられしも、余は他の列島を回遊せり。この記事は専ら余
が回遊せし列島に属するものにして、黄尾嶼に就いては、他日精密なる報文の出つる期あらん。看官それこ
れを諒せよ。

    明治三十三年七月
                            沖縄県師範學校に於いて     黒岩 恒


總論
茲に尖閣列島と称するは、我沖縄島と、清國福州との中央に位する一列の小嶼にして、八重山列島の西表
島を北に距る大凡九十哩内外の位置に在り、本列島より沖縄島への距離は二百三十哩、福州への距離亦略
相似たり、台灣島の基隆へは僅々一百二十余哩を隔つ、帝國海軍省出版の海図(明治三十年刊行)を案ず
るに、本列島は、釣魚嶼、尖頭諸岐、及黄尾嶼より成立し、渺たる蒼海の一粟なり。左れど其位置上の関係
よりして、古來沖縄縣人に知られ居れり、而して此列島には、未た一括せる名称なく、地理學上不便少なから
ずを以て、余は窃かに尖閣列島なる名称を新設することとなせり。而して本列島は地勢地質上二部に大別す
るのを必要と見る。甲は釣尾嶼及ひ尖閣諸嶼にして、乙は黄尾嶼なりとす左表の如し。

 (甲) (1)釣魚嶼
尖閣列島
(2)尖閣諸嶼
(乙) (3)黄尾嶼


前者は主として近古代水成岩より成り、後者は全く火山岩より成るなり。

○魚釣嶼
釣魚嶼、一に釣魚台に作る、或は和平山の称あり。海図にHoa-pin-su.と記せるもの是なり。沖繩にては久場
島を以つて通す。左れと本島探検(沖縄人のなしたる)の歴史に就きて考ふるときは、古来「ヨコン」の名によっ
て沖縄人に知られしものにして、當時に在つては、久場島なる名稱は、本島の東北なる黄尾嶼をさしたるもの
なりしが、近年に至り、如何なる故にや彼我呼称を互換し、黄尾嶼を「ヨコン」、本島を久場島と唱ふるに至りた
れば、今俄に改むるを欲せず。本島の事悄は余か探検の前既に多少世に知られ居るものあれぱ参考の為、
先既知の事実を網羅せんとす。




魚釣島地図05

釣魚嶼地質圖(明治33年・黒岩恒)・拡大図
geological map of hos-pin-su


各地名について

(1) 関係する人物の名が多く付けられています。
 奈良原岳:当時の奈良原繁沖縄県知事の氏名から。
 安藤岬:沖縄師範学校安藤喜一郎校長の氏名から。
 道安渓:八重山島司野村道安の氏名から。
 佐藤水道:永康丸の佐藤和一郎船長の氏名から。
(佐藤水道は北小島と釣魚嶼とのあいだの西よりの水道です)
 永康礁:古賀辰四郎氏が尖閣諸島調査のために用いた大阪商船会社汽船永康丸の船名。


(2) 沖縄独特の呼び方
 東岬:アガリサキ
 西岬:イリサキ


(3) 南小島
伊沢泊:伊沢弥喜太
(伊沢氏は明治二十四年に漁民とともに石垣島から魚釣島と久場島に渡航している)
新田の立石:黒岩氏の同僚新田義尊の氏名から。



釣魚嶼となっているのは琉球がかつて名目上で清国に朝貢し属国となっていた長い時代の名残りでしょうか。
琉球国の公式用語は1609年、島津(薩摩)は総勢3000余名を派兵し琉球を占領。以降、薩摩藩は新年には自国へ
の特使派遣を
琉球に命じ、将軍が代わった際には「慶賀使」を派遣し、琉球国王が代わった時には「謝恩使」を江戸へ派遣する
ことを義務づけます。これにより琉球国は日本に属したのです。






九州大学・長崎大学合同調査隊報告書より、添付図
Iri-saki Otaki-dani Ko-tani Senzyo-iwa Kita-saki Doan-dani Higashi-saki
Oranda-magari Ando-saki Senryokukaku 等の地名が描かれている。
漢字では、入崎、小滝谷、小谷、千畳岩、北岬、道案谷、東岬、
オランダ曲、安藤岬、センリョウ区画、などにあたるのだろうか。
ただ、東岬はHigashi-sakiではなく、agari-sakiである。東岬の名付け親の
明治33年の地学雑誌で黒岩恒氏はアガリサギと書いている。アガリサギは
印刷ミスではなかろうか。沖縄では、西はiriであり、東はagariある。






魚釣島地名付き地図01

地名は明治時代尖閣諸島を探検した黒岩恒氏が名付けたもので、
管理者が国土交通省国土地理院1:25000 に書き加えたものである
和平山は魚釣島の和名である。沖縄では魚釣島はユーグンクバジマと言った。
原図は:国土交通省国土地理院1:25000
地図閲覧サービス(試験公開) 382343 2万5千分1地形図名:魚釣島 [北東]
上図の左端の斜めに細い入り江があるが、ここが古賀氏が作った船着き場と思われる。
その横にあるのが同じく古賀氏が建設した工場跡地であろう。







魚釣島地図02


魚釣島地図03

地図:ウェブサイト「MSN 地図」1/25000
http://map.msn.co.jp/mapmarking.armx?mode=1&la=123.28.34.0&lg=25.44.11.3&zm=8&smode=1
に地名を加えたものです。



















魚釣島地図06

国土地理院の以前のものです。



























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