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開拓時代と跡地
尖閣諸島写真集
開拓時代と跡地
かつて尖閣諸島には私達日本人の祖先が住んでいました。他国の者が尖閣諸
島で生活したことはありません。多い時には200名ほどが魚釣島の鰹節工場で働
き、久場島でアホウドリなどの海鳥を捕獲していました。今も魚釣島にはその工場
の跡地があり、多くの写真に記録されています。久場島にはその痕跡が残ると聞き
ます。いつかその写真を見つけたいと思っています。
開拓時代
以下はアサヒグラフ・昭和53年5月5日号 尖閣列島波高し
「無人島ではなかった」 と東京地學協會編「地学雑誌」第拾貳集・
明治33年自第百参拾参巻・至第百四拾四巻に掲載された
宮島幹之助の撮影した写真 、及びサピオ、八女市広報に
掲載されたものである。
(1) 鰹節工場と工場で働く者達の住居
写真に記された原文:魚釣島全景 10戸あまりの家がひとかたまりになっている。(12-13頁)
※1 管理者:多い時では200名ほどが働いていたと言われており、とすればこの写真は、
未だ開拓初期の頃のものであろうか。
出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号
尖閣列島波高し
「無人島ではなかった」 より引用
写真に記された原文:
魚釣島全景 10戸あまりの家がひとかたまりになっている。(12-13頁)
※1 管理者:多い時では200名ほどが働いていたと言われてお
り、とすればこの写真は、 未だ開拓初期の頃のものであろうか。
出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号
尖閣列島波高し
「無人島ではなかった」 より
海に浮かぶ船が上の写真と同じ形であるから同じ時に撮られたものだろうか。
出典:サピオ
下のアサヒグラフのものと同じ写真である。
両方とも古賀善次未亡人花子さんが持っていた同じ写真だろうか。
それとも違うものだろうか。
(4) カツオブシ工場前での記念写真
出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号
尖閣列島波高し
「無人島ではなかった」(14頁右下) より引用
写真原文:「当時の住民達が総出でカツオブシ工場前で記念写真をとった」
※3管理者:雑誌の写真では分からなかったが、左端に子供達の姿が見える。その横に
は女性達が写っている。 (写真に写っているのは50名ほど。50名というのは写真が鮮明
でなく判別しずらいのでおよその数である)
「尖閣列島ノート」に中にこういう記事がある。「ここに一枚の写真がある。一九七八年五月
五日号『アサヒグラフ』は,尖閣列島は無人 島ではなかったという「証拠の写真」を八枚掲
載した。それは古賀善次未亡人花子さんがもっているものだが、そ のなかの一枚は筆者
が一九七一年に入手したものと全くおなじものである。筆者のもっている写真は,一九〇
一 年二月に黄尾島で生まれたという伊沢弥喜太氏の長女真伎さんのもっている明治四
十年頃の写真である。そし て、おなじ一枚の写真を古賀花子さんは魚釣島のものだとい
い,伊沢真伎さんは黄色島(黄色嶼、久場島)のもの だという。この写真には事務所の責
任者として、日の丸のポールのところに伊沢弥喜太氏がおり、その右六人目 のところに
白い着物を着て帽子をかぶり、ステッキをついているのが古賀辰四郎氏である。」
(5) カツオブシ作りの作業風景
写真原文:「カツオブシ工場でのカツオブシ作り」
出典:アサヒグラフ・昭和53年5月5日号
尖閣列島波高し
「無人島ではなかった」 より引用
(6) 明治三十年代に島で暮らす人々
アサヒグラフ・昭和53年5月5日号
尖閣列島波高し
「無人島ではなかった」 (16-17頁下)
※4 管理者:中央下の猟銃を持つ人物が古賀氏ではないかと思われるが、あくまで推察である。
古賀辰四郎氏は沖縄に初めてピストルを持ち込んだと言われる。未亡人の花子さんは辰四郎氏の
ことを、「大変なハイカラさん」と語っておられる。この写真の人物は腰に帯ではなく銃の弾帯をまい
ており、下の 鰹節工場の入り口に立つ古賀辰四郎氏の写真の帯も帯にしては小さく、白色系統の
和服に弾帯をまい ているようにも見える。また帽子は西洋のものの様である。上の(4)「カツオブシ
工場前での記念写真」の 添付した高橋氏の指摘では、「白い着物を着て帽子をかぶり、ステッキを
ついているのが古賀辰四郎氏で ある」と書いておられる。あの写真では小さくてよく分からないが、
これらの情報から写真の人物は古賀氏 の可能性は高いと言っていいだろう
(8) カツオブシ工場の入り口
アサヒグラフ・昭和53年5月5日号
尖閣列島波高し 「無人島ではなかった」 (17頁上)
写真の原文では「カツオブシ工場の入り口 立っているのは原辰四郎さん」とあるが、
※6 名前は「原」ではなく「古賀」の間違いであろう。
尖閣諸島の開拓跡と開拓時代(01)
11管区管区海上保安庁の右写真に門が二つあるが、古賀氏が
立っているのは、左の門のようである。
アサヒグラフ・昭和53年5月5日号
尖閣列島波高し
「無人島ではなかった」 (16-17頁下)
八女市広報より
(11) 「南小島にいたカツオドリ」
アサヒグラフ・昭和53年5月5日号
尖閣列島波高し 「無人島ではなかった」 (19ページ 下)
原文:「南小島にいた海鳥」
※7 海鳥とあるのはカツオドリのこと。今は絶滅や希少種に指定されている。
アホウドリ、クロアシアホウドリ、カツオドリ、アオツラカツオドリ、などが、当時は
数十万羽いたと言われている。
(7) 魚釣島に咲くユリ
※5 管理者:魚釣島には今も百合が咲いている
アサヒグラフ・昭和53年5月5日号
尖閣列島波高し 「無人島ではなかった」 (16頁下)
写真の原文:「島の斜面に咲き乱れるユリの花」
宮島幹之助の撮影した写真
以下三点は東京地學協會編「地学雑誌」第拾貳集・
明治33年自第百参拾参巻・至第百四拾四巻に掲載されたもので、である。
(写りが良くないのは複写を更にスキャナーで取り入れた為である)
(1) 黄尾嶋西南側古賀村の人家
宮島幹之助撮影
実は当時いかなる理由からか魚釣島と久場島(黄尾島)が間違って認識されていた
のである。そのことは奥原氏や高橋氏らが示されている。しかも、
どうやらどちらの島にも住居があり、人が住んでいたらしい。とすれば、これの写真の島は
久場島なのであろうか、魚釣島なのであろうか。未だ分かりかねている。
(2) 黄尾島波止場上涯下
「小屋と小屋との間に見える白いものは日章旗である」と書いてあるが、当時の写真技術では日章旗が
はためく瞬間を捉えることができなかったのだろうと、妙に時代の推移を実感した。
(3) 黄尾島波止場
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船着き場
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古賀氏が10年かかって作り上げた水路
尖閣諸島の開拓跡と開拓時代(11) 原題:船着き場 写真:(
アサヒグラフ・昭和53年5月5日号)
ある資料ではダイナマイト小屋があり、水路をダイナマイトで作ったとあったが、
古賀辰四郎氏の未亡人の花子さんが、
「船着き場をつくるのに十年かかったそうです。
機械を使わないで硬いサンゴ礁を砕くのですから。」と記者に語っておられる。
とすれば、これが事実なのだろうか。
サンゴ礁をくりぬいた船着場のサバニ
写真:九州大学・長崎大学合同調査隊報告書(撮影昭和45年12月)
波と格闘しながらサバニの陸揚げ
写真:九州大学・長崎大学合同調査隊報告書(撮影昭和45年12月)
尖閣諸島の開拓跡と開拓時代(16)
魚釣島唯一の港
写真元:「秘境を探る」 -尖閣列島-より
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尖閣諸島の開拓跡と開拓時代(12) 尖閣諸島の開拓跡と開拓時代(13)
写真元:第11管区管区海上保安庁
尖閣諸島の開拓跡と開拓時代(14)
写真元:
日本共産党・穀田議員のHP 「こくたが駆く」より
尖閣諸島の開拓跡と開拓時代(15)
魚釣島の港 珊瑚礁を切り開いたもの
写真元:「秘境を探る」 -尖閣列島-より
古賀氏が作った鰹節工場跡
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尖閣諸島の開拓跡と開拓時代(02) 尖閣諸島の開拓跡と開拓時代(03)
写真元:第11管区管区海上保安庁
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尖閣諸島の開拓跡と開拓時代(04)
写真元:第11管区管区海上保安庁
尖閣諸島の開拓跡と開拓時代(05)
鰹節工場の跡
写真元:「秘境を探る」 -尖閣列島-より
カツオ工場跡のベースキャンプ全景、左から隊長プレス副隊長テント
写真:九州大学・長崎大学合同調査隊報告書(撮影昭和45年12月)
出典:サピオ
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